2026年5月28日、家族に見守られながら母が天国に旅立ちました。享年56歳でした。
葬儀も終わり、落ち着いたので、心の区切りのためにシェアさせてください。

まず、葬儀に際して温かいお花を届けてくださったみなさまに、心より感謝申し上げます。母を慕う方々はもちろん、僕の仕事上の関係者のみなさまからも、たくさんのお花をいただきました。あの花の数だけ、母の存在と、僕のこれまでの歩みを支えてくれた人たちがいるということです。また、突然のご連絡にも関わらず、登壇や取材などのスケジュール調整にご対応いただいた関係者のみなさまにも、深くお礼申し上げます。温かく受け止めていただいたこと、忘れません。
未分化癌でした。治療は困難と言われました。痛みが、気づいたときには骨盤や左足の深いところまで広がっていました。あの診断を聞いた日のことは、まだ鮮明に覚えています。
AIの時代です。生成AIが医療を変えると言われ、創薬が加速し、診断精度が上がっていると話題になります。でも、母には間に合いませんでした。僕が語り続けてきたAIの未来は、自分の母親一人を救えませんでした。
毎日のように企業のAI戦略について語り、政府の委員として政策を議論し、AIが社会を変えると本に書いて、講演で話してきました。その言葉が全部、虚しく感じた瞬間がありました。
だからこそ今、書かずにいられません。母がいかにすごい人だったか。
看取りの時間に、僕がしたこと
正直にいうと、看病において、僕は一歩引いていました。精力的に動いてくれたのは父でした。毎日のように家に来てくれたおばさんやおばあちゃんがいました。弟と妹が、現場で体を張って母のそばにいてくれました。
僕が感じる感謝の重さは、むしろそちらの方に向いています。家族みんなで母を支えてくれました。それを先に書いておきたかったです。
では僕は何をしていたかというと、「なぜ僕が今の僕でいるのか」と向き合う時間にしていました。
緩和ケアで寝る時間も増えた母のそばで、静かに考えていました。この自己中心的な性格はどこから来たのか。周りに合わせない個性は、誰が守ってくれたのか。年間300回以上登壇し、AIの最前線を走るこのキャリアの土台には、何があったのか。
答えはいつも、母に行き着きました。
幼稚園を脱走し続けた子どもを、ただ認めてくれた
千葉県船橋市にある健伸幼稚園は、地元では知られた園です。僕はその卒業生なのですが、在園中に「真面目に通った」記憶がほとんどありません。
幼稚園バスに乗るとき、ママと離れたくなくて泣きました。時々そのまま休みました。運動会でソーラン節を踊る場面では、クラス全員が揃って踊る中、僕だけひたすら運動場を走り回りながら両親を探していました。
しょっちゅう脱走もしました。遠足のときには両腕を女の子ふたりにしっかり掴まれながら歩きました。競走では、ゴールに向かって走りませんでした。観覧席にいる親の方に向かって走りました。みんながゴールする中、ひとりだけ母のところへ走っていきました。
ドッヂボール中もセミを探している方がずっと面白かった。集団でお遊戯をすることよりも、自分が面白いと思うことに向かっていく子どもでした。
小学校に上がっても、その性質は変わりませんでした。廊下に立たされる回数はほぼ毎日。のび太と大差ありませんでした。担任の先生に「ケアクリニックに相談してみては」と言われるくらいには、やんちゃでした。とにかく自己中心的で、自分が面白いと思うことしかやらない。
普通の親なら、矯正しようとするでしょう。「みんなと同じようにしなさい」「ちゃんとしなさい」と。
でも母は、そうしませんでした。
叱ることも、無理に変えようとすることもなく、ただ見ていました。「この子はこういう子だ」と認めながら、遠くから見守っていました。ガードレールみたいな存在だったと、今にして思います。行き先を決めるのではなく、外に飛び出して崖から落ちないように、ただそこに立っていてくれました。
その安心感の中で、僕は好き勝手に育ちました。

個性が、初めて「武器」になった瞬間
問題児のまま、高校に入りました。
放送部に入ったのは、今思えば必然だったかもしれません。喋ることは好きでした。伝えることが面白かった。そして放送部という場所は、個性がそのまま武器になる場所でした。
そこで取り組んだテーマが「孤独死」でした。
社会問題を自分たちで掘り下げ、取材し、ドキュメンタリー番組として仕上げました。その作品が、全国大会まで行きました。
あの経験が、僕の中の何かを決定的に変えました。情報を発信することの手応え。社会の課題を言語化することの面白さ。個性的な切り口が、むしろ評価されるという体験。
大学から今へ。計算じゃなく、猪突猛進してきただけです
大学1年のときは、居酒屋でアルバイトをしていました。毎月10万円以上稼いでいました。それなりに充実していましたが、すぐに飽き飽きしました。
それでITベンチャーでインターンを始めました。特に深い理由はありませんでした。面白そうだったから、というだけです。でもそこで出会った縁が、AIの領域へ僕を引き込みました。
そのまま今のキャリアができあがりました。
AINOW編集長として1,500本以上のAI記事を書き、年間300回以上の講演を行い、著書を2冊出し、経産省の委員を務め、国内初のAIエージェント特化型業界団体を立ち上げました。
全部、計算の中にあったわけではありません。猪突猛進で、目の前にあることにひたすら向き合ってきました。それだけです。
スティーブ・ジョブズは言いました。「点と点は、後からしか繋がらない」と。
振り返れば、あの幼稚園での脱走も、廊下に立たされ続けた日々も、放送部でのドキュメンタリー制作も、居酒屋での深夜労働も、ITベンチャーへの衝動的な飛び込みも、全部繋がっていました。その先に「人間とAIが共存する社会をつくる」というビジョンがありました。
当時は、まったく見えていませんでした。でも今なら分かります。あの点たちがなければ、このビジョンは生まれなかった。
やんちゃなのに、どこかで俯瞰している
ひとつ、自分でも不思議に思っていることがあります。
僕はやんちゃで自己中心的で、衝動で動くタイプです。それは間違いありません。でも同時に、どこかで物事をマイナスとプラスの両側面から見ようとする癖があります。感情的に見えて、その実、少し引いたところから全体を眺めている瞬間があります。
騒がしいのに静かな部分がある。猪突猛進しているのに、どこかで冷静に構造を読んでいる。
これも、母の影響だったのかもしれないと今は思います。
どんな状況も一方向だけで見ない。脱走する子どもを見て「困った子」と切り捨てるのではなく、「この子にはこの子の理由がある」と別の角度から見る。その眼差しの中で育てられたから、僕も自然と、ひとつの出来事にプラスとマイナスの両面があることを探すようになりました。
AIが社会を変えると言いながら、その限界も語れる。自分のキャリアを誇りながら、その偶然性も笑って話せる。
あの俯瞰する視点は、母から受け取ったものだった気がしてなりません。
母の名誉のために、書いておきたいこと
母はすごい人でした。
派手な功績があるわけではありません。表舞台に立ったわけでもありません。でも、一人の人間をちゃんと「個」として育てることが、どれほど難しいか。
僕はAIの研究者ではありません。大手企業の出身でもありません。学歴で勝負してきたわけでも、組織の看板を背負ってきたわけでもありません。
それでも今、AICX協会の代表理事として国内初のAIエージェント特化型業界団体を動かし、経産省の委員として政策の議論に加わり、年間300回以上の場で話をしています。
これが本当にすごいことだとすれば、理由はひとつしかありません。
母が、ただ認めてくれたからです。
脱走する子を「この子は脱走する子だ」と受け入れました。廊下に立たされ続ける子を、見捨てませんでした。就活をしない子を「そういう道もある」と信じました。ゴールじゃなく自分に向かって走ってきた子を、きっと笑いながら受け止めました。
やんちゃな核と、俯瞰する眼。その両方を削らずに育ててくれました。
看板も肩書も資格もない状態から、個性だけで切り拓いてきたこのキャリアは、まるごと母の育て方の産物です。
この角を、削らないことが恩返しだと思っています
自己中心的なところは、今も残っています。個性的なところも、相変わらずです。
でも、それを直そうとは思いません。
この角を削ることは、母がやらなかったことをわざわざ自分でやることです。それは母の育て方を否定することになる気がして、できません。
父が精力的に動いてくれました。弟と妹が毎日そばにいてくれました。おばさんやおばあちゃんが毎日のように家に来てくれました。みんなの力で、母は最後まで家で過ごすことができました。
僕はその輪の少し外に立ちながら、ずっと考えていました。
なぜ僕は今の僕なのか。何が僕をここまで連れてきたのか。
答えは、ひとつでした。
気づけば、環境が僕を作っていた
母が逝ってから、親友たちが毎日のように気にかけてくれました。
「元気か」という一言だけのLINE。過去の笑える動画を突然送ってくれる友人。何も言わずにそばにいてくれる人たち。
そのとき気づきました。
僕は結局、環境の中でしか育っていません。
母がいました。父がいました。弟と妹がいました。毎日来てくれたおばさんやおばあちゃんがいました。廊下に立たされながらも笑って過ごせたクラスメートがいました。放送部で一緒にドキュメンタリーを作った仲間がいました。居酒屋で一緒に働いた人がいました。インターン先で縁を繋いでくれた人がいました。そして今、たくさんの親友たちがいます。
自己中心的で猪突猛進で、個性だけで切り拓いてきたような顔をしていますが、実のところ僕は、周りの人たちに育ててもらい続けてきた人間です。
その環境の起点に、母がいました。
インスタも、Xも、Facebookも、NewsPicksの番組も、いつも一番に見てくれていたのが母でした。表立って何かを言うわけじゃない。でも心の奥でずっと応援してくれていました。それだけは、確かに伝わっていました。
僕が発信し続けられたのは、どこかでその視線を感じていたからかもしれません。
これからも、このキャラクターのまま。覚悟を持って。
猪突猛進で走り続けてきた点たちが繋がって、「人間とAIが共存する社会をつくる」というビジョンになりました。
もし仮に今の僕の在り方が、AIエージェント時代に求められる人物像の一端をかじっているとすれば、組織に染まらない個性、既存の枠に縛られない発想、現場から言語化する力、そして物事を複眼で見る視点は全部、母が守ってくれたものです。
だとすれば、その核を磨き続けることは、単なる自己実現じゃありません。母の名誉のためでもあります。
今、AIエージェント時代のスキルのあり方を議論する立場にいます。そこで「こういう人間が時代に必要だ」と言葉にするだけでなく、自分自身がそれを体現して見せなければいけません。研究者でも大手出身でもない、個性だけで切り拓いてきた人間が、時代の最前線にいられることを、背中で示し続けます。
それが覚悟です。今の私を支えていただいているすべてのみなさんへの感謝を込めて。





